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地球の滅亡危機 20200911

地球の滅亡危機 19年目たった今でも、世界中が忘れることが出来ない事件。そして今でも、このような事件が起こる可能性を考えると身震いがする。 9月11日夜、妻と二人、自宅で寝支度をしていたとき、信じられない映像がTVに映し出されていた。最初は現実に起こっているとは到底信じられなくて、映画のワンシーンのようなこの映像をただあっけにとられて眺めていた気がする。私たちの感情は徐々にそれが現実に起こっていることだということを認識し始め、驚愕と恐怖が急に込み上げてくる。ワールド・トレード・センタービルに旅客機が突っ込んでいく映像。しかも追い打ちをかけるようにツインタワーのもう1棟にも同様に別の旅客機がまた突っ込んでいく。そしてさらにショッキングな映像はその2本の超高層ビルが崩れ落ちていく姿。この事件での死者は763人にも上る。 私は幸か不幸か、この事件が起こった舞台、すでに高層ツインタワーが消え去ったこの地に1年後立つことになった。厳しいボディチェックやスーツケースチェックを受けたにせよ(チェックの際に壊された)、アメリカを訪問できたのは日本人であったからだろう。この事件の跡地、「グラウンド・ゼロ」に立ち、亡くなられた方たちの膨大な数の名前が刻まれたプレートの前に立って絶句した。同時に自由の女神はまだ見学できなかったけれど、エンパイアステートビルを含めて、ほとんどのニューヨークの観光名所へは訪問できたことに驚いた。 オウム真理教の事件もそうだけれど、このアメリカ同時多発テロ事件を考える時、底知れぬ恐ろしさが襲ってくる。それは、少数のテロ実行者によって、一つ間違えば「人類滅亡」の危機さえ可能にしうる現在の世界状況だ。国家レベルになれば、更にリスクは高まる。核拡散の禁止条約を世界規模の条約で締結しながらも、核保有国は発表されているだけでも9カ国、疑惑がある国を含めれば更に増える。核弾頭数は2万発に迫る。いったい地球を何度破壊するつもりなのだろう。いったいいつまでこんなチキンレースを繰り広げるつもりなのだろう。一人の狂人のために地球が滅びてゆく悪夢も決して現実離れした話ではない。

『神戸・続神戸』(西東三鬼)と『上海』(横光利一)について

 私がそう感じるだけかもしれないのだけど、『神戸・続神戸』に出てくる神戸と『上海』に出てくる上海の空気感、そこで生きた人々の雰囲気が実によく似ている気がする。もちろん時代的な背景が似ていることはあるのだけれど、どちらに出てくる登場人物たちも生きる事に必死でありながら、なんとなく人生を達観しているようにも見える。誰もが死と隣あわせている生活の中で、実に個性的に人間らしく生きているように思えてならない。街は共に国際的で日本人に固執することもなく、また日本人意識過剰のせいで縮こまることなく、自分達の感情で生きている気がする。なかなか愉快な外国人も登場して読者を愉しませてくれる。主人公たちに絡んでくる女性たちもまた魅力的なのだ。登場してくる人々は基本的に貧困であったり、何かに困っている人達である。それを優しく見守り、時には手助けする主人公たちの優しさが私をほっこりさせる。現代社会にはない、我々にとってはもうおとぎの国の物語であるからこそ、同じ世界観をそこに見るのだろうか。この無国籍的、無秩序的空間を空想する私にとっては、沢木耕太郎が描く香港やマカオも同類かもしれない。まだ末読ではあるが、芥川龍之介が遺した『上海游記』や谷崎潤一郎が綴った『上海交遊記』からも同様の空気を感じ取れるかもしれない。後日の愉しみとしよう。それらは多分、歴史の中に確実に存在したであろう、私にとっての非日常的憧憬なのだろう。私の読書のひとつの方向性でもある。

二葉亭四迷のこと 20200805

二葉亭四迷のこと 有名な作家の代表作や出身地は結構知っていることも多いが、どこで、どのように亡くなったかなんていう事は意外と知られていない。 本名、長谷川辰之助、二葉亭四迷は1864年東京市ヶ谷の生まれだ。父親は尾張藩士。明治の文豪として知られているが、生まれたのは江戸時代だ。校長が気に入らぬからと退学届を出すような、結構な暴れん坊だったらしい。そんな彼だから、ご存じ『浮雲』に初めて登場するペンネームが「くたばってしめえ」と半ば自虐的な文句を江戸っ子らしくネーミングしているのがチャーミングですね。 ロシア文学の研究者、翻訳者としても知られる彼が、ロンドンからの帰途、ベンガル湾上で肺炎が悪化して亡くなり、シンガポールで火葬されたことを私は沢木耕太郎さんの『深夜特急』を読むまで知りませんでした。シンガポールには今でも日本人墓地に彼の墓があるようです。安らかにお眠りください。

山本七平のこと 20200728

山本七平のこと いま、「山本七平」の名前を聞いてぴんと来る人はずいぶん少なくなっているかもしれない。私が書店に入ってきた頃は、まだまだビッグネームだった。大正10年の生まれで、平成3年に没しているからかなり長生きをされた方だ。著書の名前には、もちろん「山本七平」の名前を使われることが多かったのだけれど、「イザヤ・ベンダサン」というペンネームをお持ちだった。『日本人とユダヤ人』という300万部を超えるベストセラーを残し、当時は覆面作家として、このペンネームを使われていたらしい。このペンネームは「いざや、便出さん」ではないかと言われ、なかなかに人を食ったネーミングであるところが愉しい。 さて、この山本七平さんは評論家、作家になる前から、「山本書店」という出版社の経営者であった。両親ともにクリスチャンで、本人も青山学院の教会で洗礼を受けている、敬虔なクリスチャンであったらしい。死後、遺骨がイスラエルでさんこつされるなど、実に徹底している。 1956年、世田谷の自宅で聖書学を中心とした出版社「山本書店」を創業している。のちに株式会社組織となり、市ヶ谷に会社は移転している。 前述の『日本人とユダヤ人』は1970年に山本書店から発売されている。 山本七平さんの死後は夫人のれい子さんが店主として遺志を引き継ぎ、閉店する2007年3月31日まで続いた。

『深夜特急』のこと 20200728

『深夜特急』のこと 若い頃から自由な旅が憧れだった。いつか自分で自由に使えるお金がそれなりに貯まったら、世界中を旅したいと思った。そのバイブルの代表的な存在が、司馬遼太郎の『街道をゆく』と沢木耕太郎の『深夜特急』だ。もっとも、『深夜特急』の第1巻が発売されたのは1986年なので、そのとき私は27歳。青春の盛りを過ぎていたのではあるが。 この2冊の旅文学は対照的だ。綿密周到に用意した旅である司馬さんの旅と、全く当てのない自由気ままな沢木さんの旅。どちらも魅力的ではあるのだけれど、何か壁にぶつかったときに思い出すのは、やはり『深夜特急』だ。現実逃避だといわれればそうだろう。そうそう、愉しい変化に富んだ日々が続くわけもない現実の中で、『深夜特急』の中で語られるトラブルや不安の描写までもが、ただただ羨ましかったものだ。ある時、まだ『深夜特急』を出版されて間もない頃、出版社の会合で沢木さんの講演を聴ける幸運に恵まれた。普段着のような姿で現れた沢木さんは何の気どれも気負いもなく、楽しそうに旅のエピソードを語っておられた。マカオのカジノでのエピソードがとても印象的で、それから十数年後沢木さんが語ったカジノを体験できた時の嬉さと満足感は今でも忘れはしない。結果は散々だったけれど(笑)いや、ある意味で『深夜特急』に対する憧れは、今もずっと続いている。会社組織の中にいれば、毎日のように不愉快で腹立たしいことには出くわすものである。大げさに言えば、そんなときに私を救い出して勇気づけてくれたのが『深夜特急』だったかもしれない。自己責任による「自由」の象徴なのだと思う。これからも当分は『深夜特急』が誘う仮想旅を続けるとするか。久しぶりに手に取った私のバイブルが手招きをしている。

進化と絶滅 20200725

進化と絶滅 人間が進化を続けると思うのは、全くの誤解であると思う。確かに身体的な変化では進化しているように見える一面もある。背が高くなり、立派な体格になった。日本人に限らず、食物と生活習慣次第で、本当に短期間でもこうなるらしい。でも、これは遺伝的な進化ではない。最近の若者の脚はすらりと長く、顔も小顔な人が多い。 また、医学の進歩のおかげで、ずいぶんと寿命は延びた。ただし生物学的にいえば、生殖能力をなくした生物が大量の食料を消費しながら生きながらえることはむしろ退化なのかもしれない。確かに人間は数量的体積的優位を基に生物界に君臨し、多くの別の生物たちをレッドデータブックへの掲載へと追い込んできた。弱肉強食の論理からいえば、これも立派な優性なのかもしれないが、一方で、新型コロナウイルスのような新参者に、生命を脅かされ、多くの人が生命を奪われ、種属そのものに生き方の変化を求められている。多くの人々がこの理不尽な自然界からのリクエストに脅威を覚え、身もだえしている。我々が誇っていたはずの最新テクノロジーも、人工知能も、先端医学も手も足も出ぬままに一年をやり過ごそうとしている。「足下をすくわれる」とは正にこのことで、私たちは人類として、この新種生命体からの攻撃をなめてかかっていた。人類最高知能を謳っていた「アメリカ合衆国」が一番の被害を受けていることを見れば明らかだろう。この超小型の得体の知れない生物よりも、人類が高等であると言えるのだろうか。強いものが頂点に立つのが生物界の掟であるとするならば、人類はすでにその王者の座を明け渡しているのかもしれない。その昔、「ミクロの決死圏」なる映画があったが、種の保存上は小さくて構造が単純である生物ほど強いと言えるかもしれない。 そんなことを考えていると、人間は心や知能を持たされているおかげで、自分たちが負けを認めるときに、ずいぶん惨めで、儚くて、悲しい生き物なのだろうと思う。お金だけは持っているのに、余命宣告をされたひとりぼっちの老人に似ている。自分ではどうすることも出来ない状況と立ち向かうのに、意識はむしろ邪魔である。生殖活動を終えると、それを運命と知り、一生を終えていく生物もあると聞く。人はそれを見て儚いと涙を流すが、実はそんなことを考える人間の方こそ、儚く悲しいのである。最終的には何の役にも立たないであろう「読書」などに...

ホロコーストの記憶 20200725

ホロコーストの記憶 4連休の最中、しかも片隅にひっそりと載っただけの記事だから、目にした人さえ多くないかもしれない。けれど、私にとってはこの小さな記事がかなり衝撃的だった。 ドイツで、93歳の元ナチス看守が裁判で有罪判決を受けたという記事である。ユダヤ人収容者ら約 2,500人の殺人に関与した殺人幇助罪に問われたものだ。「ドイツではホロコーストの惨劇をまだ歴史的過去にしていないのか」、という驚きである。 今までに色々な議論があるが、私自身はドイツと日本に当時の指導者の思考的な類似性を強く感じる。そしてその思考が国民全体を包む空気として存在したことも共通していると思っている。それなりの抵抗勢力があったことは歴史的にも記述されているが、それらは両国とも国家的昻揚の中で押し潰されてしまった。 その共通性とは国家としての優越意識であり、国民としての優越意識である。「国民」は「人種」と置き換えられるかもしれない。ドイツ帝国はこの思想で、ユダヤ人大虐殺を起こし、チェコやポーランドなどの東欧諸国に対する迫害行為を露わにした。大日本帝国は中国や朝鮮半島に対して迫害や虐殺事件を起こし、東南アジア諸国に対して「大東亜共和圏」なる思想を強要し、植民地化まがいの行為で侵略を行った。皮肉なことに、この二国には優越意識のが下に隠れた、近隣の歴史的な選考に対する「気後れ的嫌悪」があった。その対象がドイツの場合は「ユダヤ人」であり、日本の場合は中国であり朝鮮半島であったということだ。いわば両国の文化的基盤を築くために指導的役割をした存在である両者に対する劣等意識の隠顕であろうか。 しかしながら、そうして3/4世紀を経た今の状況はずいぶんと違っている。国民というよりは国家としての責任の感じ方が違うのであろう。日本において「戦犯」はもう存在しないし、「象徴天皇」の出現とともに「国家の責任」が「過去の歴史」へとすりかえられてしまった感がある。あたかも新しい国家へと移行して、古い帝国の犯した罪を放棄してしまったような体である。私自身も、ある意味、それが歴史的必然のように思えていた節がある。恥ずかしい話だ。対して、ドイツは東西に長い間分断されたせいで、その両地域を分けていた壁の重みを忘れていないのかもしれない。1990年のドイツ統一からまだ30年しか経過していないせいもしれないが、陽気にビールを手に喚起す...

ロゲットカード LOGet❗️CARD 20200707

日本全国の観光スポットを統一フォーマットでシリーズ化したコレクションカード。各スポットで設定された配布条件をクリアすることでもらうことができます。表面に各観光スポットの素敵な写真、裏面には各スポット公認の解説が書かれています。自分が旅の際に訪れた場所でもらって集めると、素晴らしいコレクションが出来そう。まだ今は52種類しかないけれど、カードがどんどん増えてくると、コレクションの旅も楽しそう。将来的には世界のスポットのカードなんかもできたら、なんていう夢も膨らむのです😊 https://loget-card.jp/list_card.aspx

書店未来夜話 20200706

書店の未来 書店勤めを約35年。必然的にこの場所が日常である。それは自分の店にいるときだけではなく、ほかの本屋さんに入っても同じような感覚を覚える。視覚的な風景、匂い、お客様の話し声・・・一見違うようであっても、やはり相似的な空間なのである。 似たようなスペースに図書館がある。品揃えから言うと、超大型書店を除けば、公立図書館の方が収容書籍点数は多いはずである。ところが、空気が違うのであり、においが違うのである。それに陳列。整然と並んでいる書籍は特に私に何かを語りかけては来ない。そもそもが図書館は資料を参照する場所であり、静かに勉強をする場所であるはずであった。その図書館が本を貸し出すことを競い合うようになったのはいつの頃からだろう。本の検索に関わるサービスはよりスピーディで、レベルの高いものであって欲しいけれど、貸出冊数を競う今の図書館には違和感を覚えてしょうがない。そもそも書店の文化的価値を認めない日本のお役人方が送り込んだ「書店仕置人」に思えてしょうがない。口先では書店と図書館の共存などと言うけれど、本当にそう考えるならば、全国の図書館が国立国会図書館のように毅然と重要資料を揃えた図書館を目指すべきである。娯楽を目的とする「読書」であるならば、ちゃんと購入して対価を支払うべきである。お楽しみ事は映画だって、コンサートだって、食事だって、デートだって、旅行だって、そしてネットサーフィンだって、お金がかかるものなのである。 対価を支払うからより熱中し楽しいとも言える。 もちろん、書店および出版業界の斜陽を図書館のせいだけにするつもりはない。外部要因だけを考えても、インターネットの普及および通信端末の進化、Amazonの登場、電子書籍の登場など・・・ほかにもあるかもしれないが、言われるほど読書離れが進んでいるとは思わない。それよりネットだろうなあ。特にネット社会の進展はお金と時間の両方を奪っていく。iPhoneの購入に十数万円ぽんと出す人が、700円の文庫を高いと言って図書館で借りる。そんな事をあたり前だと思ってしまう。  もちろん内部要因がたくさんあることは承知している。だけど、斜陽産業というのはそういうもので、業界構造を変える能力を持つ人がどんどん流出していく。残るのは浮き輪を求めて漂う漂流民ばかりになってくる。たまには奇特な人や変人もいて、ごくまれにす...

オルタナティヴ ということば 20200706

「オルタナティヴ」ということばには「二者択一」という意味と、「代替の」そこから変じた「古いものを新しいものに変える」という意味がある。なんか格好いい響きの言葉で、使いこなしたい憧れの言葉でもあるのだけれど、この二つの意味がどこかしっくりと結びつかないのである。それもそのはず、意味の中心をなす「alt」という語根には二つの語源があるらしい。「別の、ほかの」という意味の語源となったaliusと、「変える、別のものを選ぶ」という意味の語源になったalterである。これで納得。もちろん、「オルタナティヴ・ロック」は後者の意味で使われているし、意外と身近なところにその痕跡があった。新宿アルタで有名なスタジオアルタの「アルタ」。それから、PCのキーボートに使われている「Alt」キー。このキーは他のキーとの組み合わせで、「既存のものに取ってかわる新しい」働きをするからである。